秋の午後の出来事(ある少女画家の想い出)

ある日、トウキョウまで出た際、古い石造りの博士会館の、普段全く使われていない1階の鉄門が、秋の陽光に向かって開放されていた。石の壁にくり抜かれた影絵じみた入り口から中を覗くと、室内に絵画が並んでいた。

 

ある日本画家による源氏物語絵画のオープンギャラリーらしい。私は、秋の光の戯れにそそのかされて、中へ入ってみた。

宣伝もない絵画展のことだから、昼飯へ向かう学生達からは見事に無視されていて、昼休みのキャンパスの喧噪が、室内を恐ろしく静謐にしていた。

 

2枚目の絵を前にして佇んでいると、いつのまにか背後霊のように、長い黒髪の少女が私の後ろに立っている。

私が次の絵に移動すると

少女もまた無言で背後霊のようについてくる。

 

私は会釈したが、

彼女は何も答えない。

 

そのとき私の前にあった絵は、パリのある国際機関本部でも展示されていたという大作だった(源氏物語、須磨の巻)。

なまじ絵が大きいので途方に暮れて動けない。

すると、少女もただじっと私の後ろに立っている。

 

そして、おもむろに口を開いた。

「この絵の前に立ったフランス人も皆、しばらく動けなくなった」

 

少女が突然話し出したので、私はびっくりして振り向いた。

なんと反応してよいか狼狽した私は、当たり障りの無い日常のあいさつなどしたが、やはり少女は無言のままである。二人だけのギャラリーに沈黙がながれる。

 

そこへ、弁当箱を提げた受付嬢(後に知ったところによると少女の妹)が息を切らせながら戻って来てた。

「姉は耳が悪いので、大声で話さなければ聞こえないのです。耳元でもっと大声で話してあげてください」

  

少女と私は源氏物語の基調色である濃い紫の地に金の絵具だけで描いた、人の背丈よりも大きな絵に対峙していた。

「この金の粉は須磨の風と波を表してる」

 

「光を当てて、下から見ると、波が光って見える。これは純金粉を使って描いたの。金粉は繊細になればなるほど薄い黒になる。ほら、このへんに光っている波の金は粗いでしょ」

そして少女は、はじめて嬉しそうに笑った。パリの国際機関にも飾られていたその絵の作者は、なんと少女その人だった。

 

 私は言った。

「私の解釈は違います。これは権力闘争に敗れた光源氏が、須磨で隠遁生活を送っている時の鬱憤を表現しています。ほら、この風と波は、実は鉛のように鈍く光って丸く自己完結している。これが光源氏の権力欲と内向きの鬱々とした心境を表している。金属的で自己完結した男の性を表しているのではないでしょうか」

 

 すると妹が興奮気味に駆けて来て

「それを姉に大声で伝えてあげてください。そんなふうには、姉も私も考えたことがありませんでした。姉はきっと喜ぶと思います」。

そこで私は、表に聞こえる大声で、自己流の解釈をもう一度叫ぶことになった。偶然通りかかったクラスメートが、好奇の目でニヤニヤしながら通り過ぎる。

 

妹は言う、

「男の人が絵を見に来てくれると、うれしいです。ぜひ、これからもここへ寄ってください。私も姉も来週まで毎日いますから」

若き天才少女画家は、普通の音量で話す妹の声が聞こえたのか聞こえないのか、無言でにっこりと笑ったあと、私の袖をそっと引っ張り、ある小さな絵の前に連れて行った。

 

彼女の指先にこもる力は、雄弁に語る作品と比べ、なんと遠慮がちで儚げなことか。

 

 

源氏物語 蛍の巻」

群青のむせかえるような夏の夜の闇

蛍が血のように赤い生命と金の炎を発して、ゆらゆらと舞い、玉蔓姫の姿を浮かび上がらせる。

 

 少女は言った。「わたしの、いちばんすきな絵」。

まるで蛍の赤い光が少女の命を表しているようで怖かった。

 

 

帰り際、少女は手帳を差し出して名前とメールアドレスを書いてくれた。

「メール友達になりませんか」

そういうと、少女はにっこりと笑った。

 

私はその日のあと、雑事に紛れてわずか徒歩30歩のギャラリーに足を運ぶことはなく、気がついたときには展示会は終わり鉄の門扉は再び閉ざされた。

あれから、数年が過ぎている...。