暗殺者にして『現実作り』の巡礼路の破壊者
(草一の独白 字が乱れている。慌ててメモしたようだ)
『夕日の塔』はなぜおそろしいのか。
黄金の美酒や娼婦を提供するからではない。
人生の「小さな放棄」を提供するからだ。
『夕日の塔』に落ちるとき、奇妙な心理状態にあることに気づく。
落ちゆく者の快楽というか、退廃の快感がそこにある。「落ちて底まで至れば、そのときは全部ご破算にしてやり直そう」と思いつつ、現状を楽しむかのように新たな酒杯を手に取る。
グラスを手に、「底に至るまでは、このまま堕ち続けよう。そして明日からまたやりなおそう…」と、甘い感傷を嘗める。
だが、底がなかったら?
底がなかったら、どこまで落ちてゆくのだろう。
果たして本当に底はあるのか?
それを足場として、再びやり直せるような底は?
もし底がないとしたら?
「底に着くまでは…」といいつつ酒杯を仰ぐ論は、成り立たなくなる。
『現実作り』の巡礼者は、世間体(トウキョウ)の外にいるぶん、現実や常識の縛りが効きにくい。
だから『現実作り』を放棄すると、底なしになる。それは「人生の小さな放棄」として実を結ぶだろう。
たとえば、修行僧が「今日は僧侶として厳格に修行に励むつもりです。で、明日は僧侶であることを放棄し、キャバクラで心の洗濯してきます」なんて許されない。都合の良いときだけ修行僧で、別のときはキャバクラ遊びなどずるすぎる。そんな人は、最初から僧と呼ぶべきではなかった。修行の放棄を前提にした修行僧というのは、背理だ。
『現実作り』もそれと同じ。都合の良いときだけ『現実作り』をして、退廃してくればテキトーな現実を持ち出して、それとくらべて自分はまだまだ…などと安心する。
最初から放棄が前提なら、それは『現実作り』の巡礼者ではない。『現実』と現実を使い分けるなどというのは、『現実作り』からすれば根本的な背理である。
底まで堕ちる過程が楽しみたいなら、『現実作り』はやめたほうがいい。『現実作り』の巡礼路に底はないから。
常に醒めていなければならない。
常に戦い続けるはめになるだろう。
それが疲れるというなら、無理に『現実作り』を続けることもない。どうぞ、いつでも現実にお戻りなさい。
「ということは…。せんせい、この前、情熱は生ものだ。夏のシュークリームのように腐りやすい、とか言ってましたよね(深い道のルート参照)」
うん。情熱の炎も『夕日の塔』にかまっているうちに、あっという間に消えてしまう、と言った覚えがある。
「今日の話と合わせると、結局、『夕日の塔』にかまけているうちに消えてしまうのは、情熱ではなくって、実は『現実作り』の巡礼路そのものではないでしょうか」
はっ! PiPiちゃん、鋭いね。そうかもしれない。
『夕日の塔』で退廃することは、修行僧がキャバクラに行くのと同じように、『現実作り』の巡礼者にとって背理なんだ。その背理行為を繰り返すことで、自分が『現実作り』の巡礼者の登録名簿から抹消され、『現実作り』の巡礼路が破壊されてしまうのかもしれない。
情熱というのは、半幻想の産物、すなわち『現実』そのものだから、『現実作り』の巡礼路が破壊されれば、情熱も一緒に破壊されてしまうのかもしれない。
「だとしたら、『夕日の塔』は、暗殺者にして『現実作り』の巡礼路の破壊者ですね」